レイキにおける「正念」の在り方

Frans StieneArticles, Japanese Leave a Comment

著者:フランス・スティーン

IMG 5428 1
レイキにおける「正念」の在り方 3

レイキの奥伝(レベル2)には、「本者是正念(ほんしゃぜしょうねん)」というマントラとシンボルがあります。これは直訳すれば「私の本来の性質(本者)は、これ(是)正念(しょうねん)なり」となります。つまり、私たちの本質、真我――すなわちレイキ――とは「正念」であるということです。では、日本の伝統的な精神修養において「正念」とは何を指すのでしょうか?

「正念」は日本仏教における普遍的な教えです。臼井甕男先生は、教え子たちに対して極めて重要な、いわば不可欠な教えを指し示されていたのです。

これらの教えを紐解けば、「正念」は「無心(むしん)」と同じものであることがわかります。日本の修養においては、一つの同じ状態に対して異なる名前を付けることがよくあります。

> **【原典引用:沢庵宗彭『不動智神妙録』より】**
> 「無心と云ふは正念と同じ事なり。一処に止まらぬ所を云ふなり。無心と云ふは、分別も思案も無く、身中を皆廻りて、全身に広ごりて有る所を云ふなり。」

このように、「正念」の状態にあるとき、私たちには分別(ふんべつ)を働かせる思考はなく、心は自由で、存在の全体に及んでいます。多くの人は、実践の中で「ここは熱い、ここは冷たい、だからこれはこういう意味だ」と分別しがちです。しかし、臼井先生は、そのようなレッテル貼りや比較、判断をしないよう明確に指し示されていました。

> 「無心において、心は散漫な思考や先入観、判断から自由になり、自発的で本能的な行動が可能となる。」
> ―― **カタリーナ・ウッドマン**

私たちの正念は自由であり、散漫な心に惑わされることはありません。それゆえ臼井先生も、手当て療法の最中に雑念に囚われることなく、むしろ心を広く開放し、先入観を持たずに自由であるよう助言されたのです。

> **【原典引用:山田無文老師『白隠禅師坐禅和讃講話』より】**
> 「息を調え終ったら、次は心を調えねばなりませんが、これが一番むつかしいのです。一言でいえば何も考えぬこと、無心になって坐ることです。」

まず呼吸を整える(調息)こと。だからこそ、臼井先生は初伝(レベル1)において、浄心呼吸法などの呼吸瞑想を最初に置かれました。そして、奥伝(レベル2)でより深く進み、心を「無心」の状態へと整える(調心)方法を学ぶのです。

> **【原典引用:福島慶道老師『東福寺の笑う仏:福島慶道老師の生涯』より】**
> 「無心:禅における『無(No-Mind)』の状態を表す言葉。福島慶道老師はこれを『創造的な心』『自由な心』、あるいは『とらわれぬ心』と表現することを好まれました。禅の目的は、すべての二元性を超越したこの心の状態で機能することです。」

さらに踏み込めば、臼井先生は「本者是正念」という教えを通じて、私たちの本来の性質は不二(ふに)であり、あらゆる二元性を超越していることを露わにしようとされたのです。

> **【原典引用:棚橋一晃『禅の唱句』より】**
> 「中国の『正(Zheng)』、日本の『正(Sho)』。この『正』という字は、不二(Nonduality)を表している。」

したがって、いわゆる「遠隔」ヒーリングを行う際、「ここにいる私」が「あそこにいるあなた」に何かを送り、あなたがそれを受け取るという構図はありません。それは二元(分離)を意味するからです。むしろ臼井先生は、送る側も受け取る側もいない、ただ深い「相互の繋がり(万物一如)」の境地であることを指し示されていたのです。

> **【原典引用:山田無文老師『白隠禅師坐禅和讃講話』より】**
> 「それは、自他の区別が消え去った無心の境地である。」

「本者是正念」の状態においては、自も他もありません。送るべきものもなく、ただ「ある」だけです。

> **【原典引用:福島慶道老師『禅の架け橋』より】**
> 「禅の悟りとは、空なる心、無心の自己を自覚することである。」

無心とは、悟りであり、私たちがレイキそのもの、すなわち真我、大光明であることを自覚することです。周知の通り、臼井先生は教え子たちに悟りへの道を説かれていました。

> **【原典引用:福島慶道老師『禅の架け橋』より】**
> 「無心には、空なる心、自由な心、新鮮な心、創造的な心、そして清浄な心が含まれます。これらすべての概念が無心の中に含まれており、禅の修行の目的はこの空なる心の自己になることです。」

臼井先生はまた、浄心呼吸法という名を通じても、この清浄な心(Pure Mind)を指し示されました。「浄心」とは清らかな心のことです。私たちはレイキの旅の最初の一歩である初伝において、すでにこの「清らかな心=正念」を学んでいるのです。

> **【原典引用:福島慶道老師『禅の架け橋』より】**
> 「心の自由は無心から生まれます。何にも縛られていないとしても、これは受動的な自由ではなく、能動的な自由です。エゴを捨て去れば、心の底から周囲の人々を慈しむようになります。エゴを断ち切れば、説明のつかない慈しみ(慈悲)が湧き上がるのを体験します。これが真の『無』の体験です。」

したがって、正念=無心とは、五戒にある**「人に親切に」**を体現することに他なりません。繰り返しになりますが、自分と他人を分けることはできません。私たちの本質は「不二」なのです。それは、状況によって変わってしまう親切ではなく、正念から生まれる無条件の慈愛です。

> **【原典引用:原田雪渓老師『覚悟のまえに』等より】**
> 「この真実の自己は認識することはできません。広大無辺です。この真実の自己に目覚めることは、無我、無心、空、あるいは『自分を忘れる』ことでもあります。」

正念、無心は、すなわち「空(くう)」でもあります。これらは日本の精神修養において極めて普遍的な教えです。心は空です。しかし、それは何もないのではありません。事実は逆で、この空の中にはあらゆるものが満ちており、無限の可能性を秘めています。ただ、空であるがゆえに、何事にも執着することがないのです。

> **【原典引用:原田雪渓老師『覚悟のまえに』より】**
> 「『現在』や『今この瞬間』は、如是(にょぜ)、空、無、道(どう)、禅、あるいは法(ほう)といった言葉でも表現されます。」

臼井先生は五戒の冒頭で「今日丈けは(今日だけは)」と述べ、この「現在・今この瞬間」を指し示されました。また、浄心呼吸法の「法(ほう)」のように、多くの実践に「法(Dharma)」という名を付けられました。このように、「本者是正念」は浄心呼吸法と同じであり、五戒を体現することとも同じなのです。核心において、それらはすべて一つの同じ本質を指しています。

> **【原典引用:前角大湛老師『禅の実践:身・息・心』より】**
> 「身心の空とは、無我あるいは無心の状態を指します。この自覚を体験したとき、あらゆる肉体的な問題が消え去り、心の緊張や硬直が解消されることがあります。このようにして、苦しみは癒されるのです。」

これこそが、臼井先生が五戒において「萬病の霊薬」と表現されたものです。私たちが「空」であり「正念」であることを体現し始めるとき、私たちの苦しみは癒されていきます。

> **【原典引用:ウィリアム・スコット・ウィルソン『一味の真理』より】**
> 「無心:判断や先入観、定義や執着のない開かれた心。鏡がすべてをありのままに映し出すように現実を認識する心。古典中国語において、無心は『自然(じねん)』と定義され、日本語の口語では『邪念のない純真さ』を意味します。」

正念=無心は、私たちを自由にします。私たちは自発的で、純真な感覚を抱き始めます。なぜなら、その心の状態には怒りも心配も付着することができず、何の思惑もなく自由でいられるからです。

> **【原典引用:片桐大忍老師『ただ坐る』より】**
> 「サンスクリット語で『正しい(Right)』を意味する言葉は『サンマ(Samma)』です。それは『共に行く』『結合する』ことを意味します。ですから、『正しさ』とは、すべてが共に生き、結ばれている状態を指します。それは、善悪や正邪といった私たちの概念を超えた、あらゆる存在と平和に調和して生きる境地なのです。」

正念とは、あらゆる存在と調和して生きる、深い「相互の繋がり」を体験することです。そこに分離はありません。分離した状態であれば、ある人には親切にし、ある人にはそうしないということが容易に起こります。しかし、正念という深い境地においては、状況によって変わることのない「人に親切に」という在り方が生まれるのです。

> **【原典引用:柳宗悦『無心の工匠』より】**
> 「一、直ちに批評せんとする欲望を抑へ、ただ見る習慣を養ふこと。二、対象を智的対象としてのみ扱はぬこと。三、自己を挿(はさ)まず、受容の構へにゐること。もし知的な分別を空(むな)しくして、明鏡(めいきょう)がただ物を映すようにできるなら、なお良い。この無分別の心――禅でいう無心の境地は、そこから物事と直接的かつ肯定的に接触する真の能力が湧き出るのである。」

この正念=無心の状態において、私たちは知性でこねくり回したり、判断したりしません。心は鏡のようになります。ただ映し出すだけで、鏡そのものは映っているものに囚われることはありません。これこそが、手当て療法、そして伝授を行う際のあるべき姿であり、私たちの人生そのものをこのように生きていくべきなのです。

> **【原典引用:片桐大忍老師『ただ坐る』より】**
> 「一生懸命(Wholeheartedness)とは、『無心』で行うことである。」

そうして初めて、私たちは偽りのない、ひたむきな人生を歩むことができるのです。

> **【原典引用:片桐大忍老師『ただ坐る』より】**
> 「菩提心(ぼだいしん)は多くの名前で呼ばれますが、すべては『一心(いっしん)』を指しています。菩提心は個人の心ではなく、宇宙の心であり、すべての存在に開かれています。それは悟りの境地そのものです。」

正念はまた、「一心」であり、「菩提心」であり、「宇宙の心」でもあります。これを体現し始めたとき、私たちは自分がレイキそのものであることに気づくのです。

> **【原典引用:聖厳法師『大乗仏教の実践ガイド』より】**
> 「この『源(ソース)』は、仏教において仏性、自性、無我、無心など、さまざまな名前で呼ばれます。これらはすべて、大乗仏典における『空』の性質の別名です。」

そのとき、私たちは自らの仏性を自覚します。私たちは最初からこの性質を持っていたのです。仏性を自覚すること、それこそが、自分がレイキという大光明であることを悟ることなのです。

### 正念(Right Mind)と妄念(Confused Mind)

> **【原典引用:沢庵宗彭『不動智神妙録』より】**
> 「正念とは、一処に止まらぬ所を云ふなり。身中を皆廻りて、全身に広ごりて有る所を云ふなり。妄念とは、何か一つ思ひ詰めて、一処に固まりて有る所を云ふなり。正念が一処に止まりて固まれば、即ち妄念と云ふものになるなり。
> 正念の一処に止まらぬ所は水の如し。妄念の固まりたる所は氷の如し。氷にては手も顔も洗はれず。心を解かして、身中を水のごとくに使へば、遣(や)らんと欲する所へ遣はるるなり。是を正念と云ふなり。」

この「流れる水」のイメージは、レイキ(霊気)の「氣」という文字の中にも見出すことができます。また、浄心呼吸法のような深い呼吸の実践を行うとき、私たちは丹田に内なる熱を生み出し、それによって凍りついた心を溶かし始めるのです。心が凍りついているとき、私たちはすぐに怒り、心配してしまいます。しかし、心がどこにも留まらなくなれば、その怒りや心配は和らいでいくのです。

> **【原典引用:沢庵宗彭『不動智神妙録』より】**
> 「無心と云ふは正念と同じ事なり。一処に止まらぬ所を云ふなり。止まる所の無きを無心と云ふなり。止まれば心の中に物有り。心の中に物無きを無心の心と云ふなり。……心も一つの事に執着すれば働かぬものなり。心の中に物が有る所は思ひなり。此の有る所の物を除き得れば、無心になりて、用いんとする時に用いられ、其の用にも叶ふものなり。
> 心の中の物を除かんと思ふ心も、又、心の中に有る物なり。除かんとも思はざれば、心自ら除けて無心になるなり。……一時にこれを得んとすれば、決して至らぬものなり。」

実践や日常生活において、私たちはしばしば感覚や「こうあるべきだ」という考えに執着してしまいます。しかし、その思考にしがみつくことで、私たちは正念ではなく「妄念」を作り出してしまうのです。だからこそ、私たちは動揺するのです。それゆえ臼井先生は、私たちが怒りや心配を和らげ、より深い慈しみを持てるように、「本者是正念」という教えを体系の中に組み込まれたのです。

> **【原典引用:沢庵宗彭『不動智神妙録』より】**
> 「正念とは徳に外ならず。」

正念とは「徳(とく)」そのものです。では、その徳とは何でしょうか? それは、私たちのあらゆる行いにおいて、レイキの五戒を体現することに他なりません。

**招福の秘法、萬病の霊薬**
**今日丈けは(今日だけは)**
**怒るな**
**心配すな**
**感謝して**
**業を励め**
**人に親切に**

> **【原典引用:原田祖岳老師】**
> 「正念とは時により、所により、正しき態度を取り、道に外れず正しく行動せしめるものである。」

したがって、レイキの実践者やティーチャーにとって、この正念を直接体験することは、修養を花開かせるための正しい心構えを持つ上で、何よりも重要です。

> **【原典引用:山田無文老師『白隠禅師坐禅和讃講話』より】**
> 「子供の頃のような無心、万年微笑ともいうべき境地に立ち返ること――それが人生の目的なのです。」

**本者是正念 = 私の本来の性質は無心(正念)である**

> 「トマス・カスリスは、その著書『日本哲学との関わり』の中で、無心を『主観と客観の二分法を克服した、高度な不二的な気づきの状態』であると述べています。」

> 「無心であれば、己の中に無心の道を得る。無心を己の中に現成(げんじょう)させれば、道という意識さえも消え去る……ここでの『無』とは、自己参照(自分というフィルター)がないことを意味します。」
> ―― **郭顧(Guo Gu)『黙照禅』**

> **【原典引用:宏智正覚禅師/郭顧『黙照禅』より】**
> 「この虚空のように開かれた場は、最初から本質的に存在しています。あなたは迷いの条件付けや幻の習慣を拭い去らねばなりません。……古人曰(いわ)く、『無心なれば、自ら無心の道を得る。無心を自ら成せば、道もまた無し』。このように進むなら、静寂の中に坐りながらも、清らかな志を持って責任を果たすことができるのです。」

> **【原典引用:崇山行願禅師『仏陀の灰を落とす』より】**
> 「もし思考を断ち切れば、心というものもありません。考えているときは、善悪、悟りと迷いといった対立(二元)が生じます。しかし思考を断ち切れば、対立はなくなり、ただ『絶対』があるのみです。」

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *